体験談

  3月12日 朝

  翌朝は普通に過ごしていました。
  洗濯をし、息子と遊び、娘はピアノコンクールが近いのでピアノの練習を頑張っていました。


  母はお客様の朝食の支度、後片付けをしていました。父はお客様の相手をしながら、周辺の状況を確認しに行き、
  近所の方々の安否を確認していました。


  主人は地震の被害の確認に、物置へ行っていました。また、主人と父は近所の方々と一緒に落石を農機具で道路のわきに
  寄せる作業をしていました。(それをしていなかったら、避難できませんでした)


  10時頃だったでしょうか…、浪江町の防災無線で、
  「苅野小学校で炊き出しをしています。お手伝いできる方はお願いします」というアナウンスを聞きました。


  お昼頃には福島第一原発10km圏内屋内退避という指示を防災無線で聞きました。
  この時母は、お客様と自宅の棟を行ったり来たり、主人と父は屋根に上がり、瓦の修理をしていました。
  私は子どもたちに家から出ないようにさせ、普通に過ごしていました。


  15時頃10km圏内避難との指示が出ました。
  「10km圏内は浪江全域になります」というアナウンスでしたが、わが家は含まれないと思っていました。
  その後、防災無線は全く途切れてしまいました。


  ご近所の方で、老人ホームに入所していた方が津波に流され、ご家族が探しに行っていて、お年寄りが一人で自宅で待って
  いるというので、夕食を届けたりしました。18時頃そのご家族がご遺体を確認してきたということを聞きました。


  その後、わが家でようやく落ち着いて夕食を食べ、TVをつけました。
  そこで初めて発電所の危機、1号機の危機を知りました。


  20km圏内対比の指示を聞いたのは19時ころだったと思います。
  普通の生活ができていた私たちにとって、思いもかけないことでした。


  主人の一言で避難を決心。
  みんなそれぞれ大事なものを持ち、30分くらいで出発しました。


避難所めぐり 3月12日 夜 →


 

 

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