~語りつづけよう。原発事故を風化させないために~

  故郷をはなれて避難生活を送るみなさん、現場で事故収拾に努めるみなさん、避難生活を支援するみなさん…。
  さまざまな立場の、みなさんにそれぞれの「想い」を語っていただきました。前向きに生きるみなさんの「声」を伝えていきたいと思います。



 

  Sさんの想い(浪江町小丸から埼玉県鴻巣市へ避難)

   主人の両親と主人、長女(高1)、長男(小2)の6人で避難してきております。
   自宅は浪江町小丸で、両親が旅館業を営み、私と主人は西台で日本料理店を経営しておりました。

   私自身は埼玉県蕨市が出身ということもあり、親戚、知人、友人もたくさんいて支えてもらっていますが、やはり浪江の地に戻りたいです。
   現在は3DKに6人で生活していますが、6人でひとつのトイレは結構キビしいです。鴻巣市では軽トラックをよく見かけるのでホッとします。

   両親は鴻巣市から市民農園をお借りし野菜を作っています。NPOの方々とも交流の輪ができました。
   農機具が全て用意されており、体ひとつでスタートできました。慣れるまで畑に通うのが大変でしたが…。
   当時受験生だった長女は、教科書が違ったり、ピアノのコンクールの対応に苦戦していました。

   私たち避難している者たちは、これからも地元と避難先での二重生活が継続していきます。
   その生活を続ける上でも自分たちが「自立」することが必要になります。

   これまで私たちを支援してくださっている方々に『こんなに支援しているのに…』という想いをされないよう、そのバランスを崩さないように、
   私たちの実情を多くの方々に説明し、想いを共有していきたいと思っています。

   ★3月11日から避難先が決まるまでの体験記をまとめました。ぜひお読みください。 → 体験記へ



 

  Yさんの想い(浪江町請戸から埼玉県川口市へ避難)

   毎日慌ただしく時間に追われ、暑さで疲れも倍増し、やらなくてはいけない事も多く…。
   できない自分にいら立ちを覚え、もがいている毎日です。
   いまだ東電の請求には至っておらず、休みはそれが肩の荷となり、ちっとも軽くなりません。

   先に進めないから、先が見えないから、楽しさも見い出せなくています。
   本当にみんな頑張っているのに、つらいです。状況が変わらないから、みんなつらいです。

   少しずつでも…と思うけど、生活していると今ある目の前の事をこなして生活していく事でいっぱいで、本当に疲れます。
   頑張るのは…疲れます。浪江で働いていた時の方が、仕事的には忙しかったのに…。毎日考えない日はないです。
   私は去年の今頃もそう感じましたが、今年はますます地域の温度差を実感しています。

   都会は便利でなんでも豊富で、花火や納涼祭やらで昨年の分も…とにぎわっていますが、私たち被災者の生活は何ら変わりはなく、
   何の進展もなく、ただ時間だけが無情に過ぎて、私たちは取り残された感があります。

   例年ですと、お盆い備えてお墓の掃除やお盆を迎える準備に追われて、慌ただしくも田舎なりの楽しみを持っていたものでした。
   子どもたちはいとこが来て、もぎたての野菜でバーベキューやさんぷらざでゲームをするのがささやかな楽しみでした。そうしたなんでもない
   生活や繰り返される毎日の中で、夏休みだったりお盆だったり、そして請戸での花火大会だったりが楽しかったものでした。

   今となっては非常に懐かしく、二度と訪れない田舎でのそうした思い出を、この時期になると無性に懐かしく、涙が流れてきます。
   失って改めて、そうした夏の思い出こそが大切だったのだと痛感しています。

   昨年もその想いに駆られましたが、今年も変わりありません。8月、先祖も敬いつつ、震災の大勢の犠牲者を忘れることなく弔う、
   重い月だと思います。これを思うたび、仕事で紛らわせようと一生懸命に忙しくしている私です。忙しいと思い出に浸る時間が減るの
   ではないかと思うのですが、やはり夜になると福島での生活を思わない日はないです。

   本当に、どうして生きているうちにこんなことが起きてしまったのでしょう。
   愛犬をブラッシングして犬の目を見ていると、無性に涙する私です。

   頑張って乗り越えていきましょう。
   乗り越えて頑張って生きていくことが生き残った私たちの宿命だと思っています。
   8月、本当に楽しめないのがつらいです。お墓参りもなく、田舎もなく、帰る場所がないのが本当につらいです。
   毎日電車に乗り、世の中がお盆休みで旅行や田舎に帰る話を聞くと、私たちだけが取り残されて、周りがすごい速さで移り変わって
   いるような感じです。私の気持ちは…。

   頑張っていきましょう。



 

  Sさんの想い(大熊町から埼玉県鴻巣市へ避難)

   私は5月から息子の小学校の隣の薬局で10時から14時の間パートを始めました。
   下の子をどうしても入れたい保育園があったのと、私自身、社会とのつながりが欲しかったからです。
   慣れている仕事ということもあり、働き始めて私も精神的に安定したようです。少し日常が戻った感じです。

   主人は、相変わらず志木の工場に通っています。埼玉県内は横の移動が不便なので、朝5時半ごろ家を出て、帰りは9時過ぎです。
   大熊町に住んでいたときは、片道10分くらいだったのに、毎日大変そうです。
   でも、職も失わず、家族で一緒に住めているので、まだ恵まれている方だと思っています。

   下の子も早く集団生活に入れたかったのと、せっかく入るなら社会性を身につけるのに適した保育園に入れたくて、
   4月から「どんぐり保育園」に通わせています。先生方もみなさんよく勉強していて、とても安心してお願いできています。
   
   家の賠償についも聞いて、簡単に資産してもらいましたが、新築時に支払った金額との開きがあり、家の方は時間がかかりそうです。
   (自宅は地区1年8か月でした)

   7月28日にハワイアンズで、大熊町の子どもたちが集まるイベントがあり、1泊で行ってきました。
   懐かしい方々に会い、近況を報告しあって、楽しいひと時を過ごしました。子どもも久しぶりに会った大熊の友達と楽しく遊べてよかった
   です。夏休みはまたどこかイベントに参加できたらいいなと思っています。

   長々ととりとめもなく書いてしまいましたが、わが家はなんとかやっています。
   そういえば、職場で「一時立ち入り」と言ったら通じませんでした。一般の人には遠~い話なんですね。



 

  Kさんの想い(富岡町から埼玉県へ避難)

   1年4か月ブランクがありましたが、先月、娘たちがピアノを再開し、今日は発表会に参加しました。
   以前テストで弾けていた曲もほとんど忘れていて、指使いも一からやり直し~という感じで、見ていて切ないですが、
   新しいピアノも届いて、子どもたちは楽しんでやっています。

   去年の夏休みは、日光市から埼玉への引っ越しや転校など、バタバタしていました。
   でも今年は子どもたちの夏休みを、去年の分まで楽しませよう!と自分自身も埼玉の熱い夏を満喫しています。



 

  Sさんの想い(現在も現場で戦っています)

   3月11日当日、自分は1F構内にある会社の事務所で仕事していました。
   最初は小さな横揺れから、徐々に大きな揺れとなり、事務所内はひどい状態で、コピー機は走るわ、ロッカーから者は飛び出るわ…。
   外を見ると、人が立っていることができずにしゃがみ込んでいる状態でした。
   その後、現場に向かったのですが、再輪にも現場は高台にあったことから、津波の被害は受けませんでしたが、地面は割れ、
   建物は壊れ、ひどい状態でした。

   その後、一夜を自宅で過ごし、葛尾、福島、新潟に避難し、去年の3月24日にいわき市に戻り、現在借り上げ住宅に住んでいます。
   当時から現在まで、1Fの復興作業に従事しています。今、現場は暑さとの戦いです。未だ電気がなく、発電機で照明をとり、
   試行錯誤しながら作業している現場もあります。
   現場には、双葉郡内、いわゆる地元はじめ、全国から人が集まり、復興作業に汗を流しながら戦っています。

   今の一番ツライ事は、いろいろな理由で仲間が会社を辞めて行く事です。

   復興には長い時間がかかります。
   いつかまた、美しい故郷に戻る日を夢見て…ですね。

   いわき市には、浪江町民はじめ、多くの双葉郡内から人が集まっています。浪江町民だけで約1800人?いるとか。
   いわき市は気候がよく、とても住みやすいです。ただ、人が集まり過ぎて住むところがなく、迷惑をかけている面もあると聞きます。
   いずれにせよ、早く落ち着いて前を向いて生きていきたいですね。



 

  Mさんの想い(浪江町田尻から埼玉県鴻巣市へ避難)

   妻、長男、次男と4人で避難しています。
   一日も早く福島に戻りたいです。ローンの返済が大変です。



 

  Yさんの想い(双葉町前田地区から埼玉県鴻巣市へ避難)

   7人家族です。近くに地元の方がいると心強いです。(みんなとの情報交換)
   何事にも負けず、元気に頑張りましょう!



 

  Tさんの想い(浪江町谷津田から埼玉県鴻巣市へ避難)

   浪江町谷津田で妻、娘、娘家族と7人で生活しておりました。
   妻の弟は鴻巣市に避難しながら、平日は福島第一原発の収束作業に従事しています。

   一日も早い収束を願っています。どこに拠点を置いてよいか、わかりません。



 

  Eさんの想い(原町区から埼玉県鴻巣市へ避難)

   小学6年の長男、小学2年の長女、2歳の次女と家族5人で避難。
   原町区の石神が学区です。原町は避難解除になったのですが、学校はまだ再開されていないし、戻れる状況ではありません。
   でも避難先の契約に期限があるので、今後がどうなるか不安です。

   長男はサッカーを頑張っていて、サッカーを通じて鴻巣になじんでいるようです。長女はストレスのせいか気分にムラがあり、
   ちょっと心配です。次女は避難中に熱性けいれんを起こし、一時入院しました。



 

  Tさんの想い(浪江町から埼玉県鴻巣市へ避難)

   浪江にいれば家があるのに、今現在は家賃を支払って住んでいる状況です。
   悔しいです!早く除染してほしいです。



 

  Sさんの想い(浪江町下羽鳥から埼玉県鴻巣市へ避難)

   妻、次男、長男夫婦、3人の孫とともに避難しています。
 
   一日も早い収束を願い、早く福島に戻りたいです。ローンの返済が大変です。
   家が流された方が、支払いがストップになったと聞いています。
   私たちも家はあるものの、家に入れないので同じだと思う。納得いきません。
   (今、家族が別々に暮らしているので)家族一緒に生活したいです。



 

  Yさんの想い(双葉町山田から埼玉県鴻巣市へ避難)

   妻、長女(東京の大学に在学)、次女、長男。

   時々双葉町の臨時職員として一時帰宅のお手伝いをしながら、町内に月2~3回は戻りますが、
   帰るたび故郷の荒れように心が痛みます。
   また、私が居住していた山田地区は特に線量が高いので、相当長期にわたり帰宅できそうにありません。

   なによりも今後の補償問題がよく見通せないので、困っています。
   町内あるいは近所の人ですら、今どこにいるのかわからない。

   大規模経営の農家だったので、車両機械等もあるし、農協の借入金もあるし、悩みはつきません。



 

  Sさんの想い(浪江町谷津田から埼玉県鴻巣市へ避難)

   私は福島第一原発の作業員でした。
   ニュース等でいろいろなことが報道されていますが、今だに信じられません。今も尚、現場に残り、
   頑張っている方々に負けないように他の土地で頑張っていきます。

   自分の車が第一原発構内で汚染して廃車になりました。
   賠償内容が不明なので知りたいです。

   年一度程度でも交流会があればいいです。

  Sくんの想い(避難当時小学6年生)

   埼玉県も慣れたけど、福島に早く帰りたい。
   福島の友達に会いたい。
   福島の友達がどこにいるか知りたい。(全員)
   学校の校内から、ランドセル、野球バックや思い出の品を持ってきたい。



 

  Nさんの想い(浪江町順礼川原から埼玉県鴻巣市へ避難)

   妻、長女、次女と避難。
 
   子どもがサンプラザの近くお家に帰りたいと言います。
   心が痛みます。早く福島に戻りたいです。
   子どもがいるため、団地の下の階の方から苦情がきて困っています。



 

  Sさんの想い(南相馬市原町区古川町から埼玉県鴻巣市へ避難)

   夫(原町で仕事をしている)、長男、次男、長女と避難。

   今は夫だけが原町に戻り、自分ひとりで3人の子どもと埼玉にいます。
   早く戻りたいと思っています。



 

  Sさんの想い(双葉郡富岡町から埼玉県鴻巣市へ避難)

   妻、母、2人の娘で避難しています。

   (賠償説明会について)このたびはご連絡ありがとうございました。
   またの機会を楽しみにしています。



 

  Mちゃんの想い(クリスマス会のプレゼント交換にお手紙を入れてくれました)

   Mより ふくしまけんの人へ

   ふくしまけんからきたMです。げんきです。
   なんでここにいるのかわかりません。だいじな人をなくしてくやしいです。
   でもいとこたちがいるからうれしいです。
   でもがんばっています。



 

  Mさんの想い(避難先の団地の元自治会副会長さん)

   埼玉の夏は暑いので、体調にはくれぐれも留意の上お過ごしください。
   会報誌「想い」読みました。皆さまのいろいろな想い、涙が出てきます。みなさんそれぞれ一生懸命生きていると感じました。
   この大変な環境の中、本当に感心しました。見習わなきゃと思います。

   このような会報誌で、想いを共有するということは、非常に良いことだと思います。
   読んでくださった方々も同じ想いの方がいるということでホッとするのでは…。
   なかでも、Mちゃんの「なんでここにいるのかわかりません」が全てを物語っています。
   子どもにこんな想いをさせてはいけません…。これに応えられる人はいるのでしょうか。

   この先難題ばかりだと思います。まずは健康が第一です。
   みなさん、ご自身の健康維持管理、十分ご留意ください。
   自分自身何もできず、ただただ、じくじたる思いです。



 

  Oさんの想い(避難先の市議会議員さん)

   会報誌と「語り部作品集」をお送りいただきまして、ありがとうございました。
   クリスマス会は盛況のうちに行われたこと、大変うれしく思いました。用事が重なり出席できなかったことが大変残念に思います。

   「語り部」は読み進むうちに涙が止まらなくなり、読むのに苦労しました。事務所で一人でいたので、大いに泣き、被災者ではない
   者たちの身勝手な支援、思いやりの勘違いに大いにに怒りを覚えました。そして私も反省するところがありました。
   送っていただき、感謝しています。

   県人会の理事会では考え方のギャップがあるのでは…と心配しておりますが、県人会で親睦を深めながら、被災者の支援も
   積極的に行っていく…というふうになるといいですね。

  「相馬野馬追いを観て」

   私は、福島県福島市に生まれ、短大を卒業する20歳まで福島市にいました。
   私が子どもの頃は、各家庭に車が今ほどは普及していない頃で、夏休みは父の出身地である仙台の七夕と松島での海水浴に
   電車で行くのが定番でした。ですから、実は「相馬野馬追い」を実際に観たのは初めてでした。

   まず感じたのは、暑かったこと。それも肌を焼き尽くすような日差しでした。
   日傘でなんとか凌いで観戦しました。被災地からも参加があり、大勢の騎馬武者が大勢の観客の前で、勇ましく紅白の旗を
   取り合い、見事旗を奪った武者は羊腸坂を駆け上がり、神社に旗を奉納します。

   それぞれ勇ましく、放射能など蹴散らすように馬を駆っていましたが、一番心に残った風景は、中学生くらいの騎馬武者が旗を
   取って羊腸坂に向かう時、そばに父親の武者が付き添い、坂の上がり口で息子の馬のお尻をたたき駆け上がらせ、その後は
   離れながら、いつまでもいつまでも息子の姿を心配そうに見つめいている姿が大変印象的でした。
   ですから、その中学生武者が無事旗を奉納して坂を下りてきたときに、私は大きな拍手を送っていました。

   このようにして、父親から息子に騎馬の技術がつたえられていく…。
   そしてそれは、震災があろうと、なくなるものではないんだなと思いながら、観に来て良かったと思いました。

   相馬に行く途中、放射能限界地域ぎりぎりを通ってきました。現実をこの目で見たかったからです。
   そして私が切なく感じたものは、「津波の被害があったところは、家は無いが人はいる。しかし放射能の被害があるところは、家は
   あるが、人はいない」ということでした。

   「相馬野馬追い」を観て思ったことは、親子の絆、なにがあっても伝統を守っていこうとする姿、そして二度と原発の事故を起こ
   してはいけないということです。原発は人の手に負えないものです。
   原発に頼らずに、自然エネルギーの開発を積極的に行っていくように、私も頑張ります!
   羊腸坂を上る騎馬武者のように…。



 

  Nさんの想い(避難生活を経て須賀川へ)

   こんにちは。暑いながらも朝夕はだいぶ涼しくなっています。
   今は須賀川に住んでいます。郡山の家は一年契約で出ないといけなかったし、川俣に預けていた犬2匹もいつまでもみてもらう
   わけにもいかないので、犬を5匹飼っても迷惑にならないところに家をめっけて引っ越しました。

   須賀川からはだいぶ山の方で遠いですが、借り物ではないわが家はやっぱりいいです。高速からは14kmくらいあります。
   冬は雪が降って寒いそうですが、頑張ります。高原って感じかな…。家はまわり近所にいっぱいありますが、みなさんに良くして
   もらっています。草花を植えて、しあわせです。

   先日はお墓参りに行ってきました。
   墓石までの背丈ほどに草が生えてて、たどり着くまで大変。みんな汗びっしょりでした。
   お墓が一層遠く感じました。



 

  「想い」編集人Fの想い

   3月11日、東京でも今までに経験したことのない大きな揺れに襲われました。
   大地震、津波、原発事故…。どれもこれも今までまったく他人事と思っていたことが、ついに自分の身にも起こってしまいました。

   自分のことだけ考えるなら、東京に住んでいるし、震災の被害はないし、「被災地は大変だな…」で済ましていたかもしれません。
   しかし、私の親友が浪江町に自分の家や店を残し、埼玉県に避難してきている。自分も家族も生活するだけで大変な時に、
   避難者のコミュニティを作りたいと自ら立ち上がり、活動を始めました。もう傍観者ではいられません。これは手伝わなければ…。

   私に何ができるのか。役に立つことができるのか。正直わかりません。
   でも、親友を通して、こうして被災し避難を余儀なくされているたくさんの方々の想いに触れ、東日本大震災そして原発事故を
   風化させてはいけないと強く思っています。

   がんばろう日本!がんばろう東北!…たしかに復興は少しずつ進んでいます。
   でもまだ故郷に帰れない人たちがたくさんいる。慣れない土地で一生懸命生活している。
   私は被災者ではないけれど、避難している方ひとりひとりが多大なストレスの中で生活していることを知っています。
   だから、私のやるべきことは、そういう実態を多くの人たちに伝えていくことだと思っています。



 


            想い.comでは、あらゆる立場の方からの東日本大震災および福島第一原発の事故への「想い」をお待ちしております。
            避難されている方はもちろん、支援している方からの応援メッセージなどもお寄せください。
            こちらのコーナーに掲載させていただきます。よろしくお願いいたします。                送り先:想い編集部



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